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大伴家持:弟書持の死を悼む歌(万葉集を読む)


大伴家持が越中国守に赴任した年の九月、家持は使いのものから弟書持の死を知らされた。この時家持は29歳であったから、書持は余りに若くして死んだのである。父旅人の死後、まだ少年だった兄弟は、互いに寄り添うようにして育ってきたのであろうから、弟の死は家持にはこたえたに違いない。

家持は、その弟の死を悼んで、一篇の挽歌を作った。

―長逝れる弟を悲傷む歌一首、また短歌
  天ざかる 夷治めにと 大王の 任(まけ)のまにまに
  出でて来し 我を送ると 青丹よし 奈良山過ぎて
  泉川 清き河原に 馬駐(とど)め 別れし時に
  好去(まさき)くて 吾還り来む 平らけく 斎(いは)ひて待てと
  語らひて 来し日の極み 玉ほこの 道をた遠み
  山川の 隔(へな)りてあれば 恋しけく 日(け)長きものを
  見まく欲り 思ふ間に 玉づさの 使の来れば
  嬉しみと 吾が待ち問ふに 妖言(およづれ)の 狂言(たはこと)とかも
  愛(は)しきよし 汝弟(なおと)の命 何しかも 時しはあらむを
  はたすすき 穂に出る秋の 萩の花 にほへる屋戸を 
  朝庭に 出で立ち平(なら)し 夕庭に 踏み平らげず
  佐保の内の 里を往き過ぎ 足引の 山の木末(こぬれ)に 
  白雲に 立ち棚引くと 吾に告げつる(3957)
短歌
  好去(まさき)くと言ひてしものを白雲に立ち棚引くと聞けば悲しも(3958)
  かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを(3959)
右、天平十八年秋九月の二十五日、越中守大伴宿禰家持が遥かに弟の喪を聞き感傷みてよめるなり。

長歌は、越中に赴くにあたっての、兄弟の別れから歌い始める。兄弟は泉川の清き河原に馬を駐めて別れを惜しんだ。「好去くて 吾還り来む 平らけく 斎ひて待てと」兄は弟に言い残して去る。それが二人の今生の別れとなった。

しかるに、別れて幾許もたたぬうちに、使いがきて弟の死んだことを知らされる。家持はその時の驚きを、「妖言の 狂言とかも」と表現している。

だが、この歌には、人麻呂や億良に見られたような、悲嘆の激情はない。そこが丈夫を自認していた家持らしいところだろう。弟の死を悲しみながらも、その悲しみに流されず、毅然と立っている姿がそこにはある。

書持については、記録は多く残されてない。恐らく妻帯もせず、仕官もしないままに死んだものと思われる。歌の脚注には、花草を愛していたとあるから、家持同様風雅の人だったようである。また、別の脚注には火葬されたとある。「白雲に 立ち棚引く」とは、その時の火葬の煙をさしていうのであろう。

書持の詠んだ歌が、万葉集巻八秋の雑歌の部に載せられている。

  あしひきの山のもみち葉今夜もか浮かびゆくらむ山川の瀬に(1587)

夜中に紅葉の流れていくさまを思い浮かべながら、「今夜もか浮かびゆくらむ」と歌っている。イメージに富んだこの歌は、万葉の歌の中でも独自性の高いものだと、古くから多くの評者に指摘されてきた。書持がもっと長生きしていたら、あるいは優れた歌を多く残したかもしれない。

書持のこの歌は、天平十年橘諸兄が右大臣になったのを記念して催された宴の席上披露されたものである。その時、書持はまだ20歳になっていなかった。この宴には、諸兄の周辺にあった人々が多く参加したらしく、それらの人々が歌った歌も一括して載せられている。その中には、家持や大伴池主の名も見える。

―橘朝臣奈良麻呂が宴するときの歌十一首
  手折らずて散らば惜しみと吾が思ひし秋の黄葉を挿頭しつるかも(1581)
  めづらしき人に見せむともみち葉を手折りそ吾が来し雨の降らくに(1582)
右の二首は、橘朝臣奈良麻呂。
  もみち葉を散らす時雨に濡れて来て君が黄葉をかざしつるかも(1583)
右の一首は、久米女王。
  めづらしと吾が思ふ君は秋山の初もみち葉に似てこそありけれ(1584)
右の一首は、長忌寸娘。
  奈良山の嶺のもみち葉取れば散る時雨の雨し間無く降るらし(1585)
右の一首は、内舎人縣犬養宿禰吉男。
  もみち葉を散らまく惜しみ手折り来て今宵かざしつ何か思はむ(1586)
右の一首は、縣犬養宿禰持男。
  あしひきの山のもみち葉今夜もか浮かびゆくらむ山川の瀬に(1587)
右の一首は、大伴宿禰書持。
  奈良山をにほふもみち葉手折り来て今夜かざしつ散らば散るとも(1588)
右の一首は、三手代人名。
  露霜にあへる黄葉を手折り来て妹と挿頭しつ後は散るとも(1589)
右の一首は、秦許遍麻呂。
  十月時雨にあへるもみち葉の吹かば散りなむ風のまにまに(1590)
右の一首は、大伴宿禰池主。
  もみち葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか(1591)
右の一首は、内舎人大伴宿禰家持。以前冬十月十七日、右大臣橘卿ノ旧宅ニ集ヒテ宴飲ス。

この頃、橘諸兄は栄光の最中にあった。諸兄の子奈良麻呂はまだ大した官にはついていなかったが、父の栄達を喜び、仲間の書生たちを宴に誘ったのだった。

まず奈良麻呂が口火を切って歌を詠むと、残りの者達も唱和するように次々と歌った。当時の人々は、こうした宴で即興の歌を詠むことができるくらいの教養をもっていたのであろう。古代の王朝的な雅というべきかもしれない。






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