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大伴家持:春の歌(万葉集を読む)


大伴家持は、天平18年(746)越中国守に任命された。時に29歳である。家持はすでに宮内少輔という地位に昇進していたが、越中の国は当時としては大国であり、そこの国守になることは決して左遷ではなかったろう。だが、若い家持にとっては、天ざかる鄙へ行くことは不本意なことであったようだ。彼は妻を伴わず、単身赴任している。

大伴家持が越中国守として過ごした5年間は、日本の文学史にとっては貴重な期間となった。家持は、それまでも付けていたであろう作家ノートを本格的に作り始め、それがやがて万葉集20巻へと形をなしていくからである。

家持は、先人たちの業績を自分なりに吸収し、そこから自らの歌風を築き上げていった。彼が最も評価したのは、柿本人麻呂と山部赤人であった。恐らくこの二人を念頭において、「山柿の門」という言葉を、万葉の精神を象徴するものとして使ったのである。

越中時代、家持は同族の大伴池主との交友を深めたり、坂上郎女との文通を楽しむ一方、狩や宴も精力的に催し、そこからインスピレーションを得て、多くの作品を書いた。また、時折は都にも足を向けた。

この時期の家持の作風は、若い盛りのエネルギーを反映して、颯爽とした詩情に満ちている。彼の多くの歌のなかでも、優れた作品が多い。

万葉集巻19冒頭に、春の喜びを歌った家持の歌15首が並べられている。天平勝宝二年(750)3月1日から3日にかけて作られた作品群である。家持の代表作ともいえるものなので、それらを順に読んでみたい。

―天平勝宝二年三月の一日の暮に、春の苑の桃李の花を眺矚て作める歌二首
  春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ美人(をとめ)(4139)
  吾が園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも(4140)
―翻び翔る鴫を見てよめる歌一首
  春設(ま)けて物悲しきにさ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田にか食(は)む(4141)

(4139)の歌にある美人とは、妻坂上大嬢をさす。家持は妻を京に残して越中に来たのであるが、その妻が前年の暮に夫のもとにやってきて、共に暮らすようになった。家持は妻との暮らしの中で、感情の充実を感じたのであろう。春を迎えて、俄かに創作意欲が起こったのだと思われる。(4139)、(4140)の二つの歌は、桃李の花にことよせて、生きる喜びのようなものを歌い上げている。家持のたどり着いた頂点を示すものであり、彼のもっとも優れた歌であるとすることができよう。

(4139)の歌について、斉藤茂吉は、大陸渡来の桃李に応じて、支那の詩的感覚があるといっている。和歌の世界にも、家持あたりから、新しい風が吹き始めたことを指摘した言葉である。

―二日、柳黛を攀ぢて京師を思ふ歌一首
  春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大路(おほぢ)し思ほゆ(4142)
―堅香子草(かたかご)の花を攀折(を)る歌一首
  もののふの八十(やそ)乙女らが汲み乱(まが)ふ寺井の上の堅香子の花(4143)
―帰る雁を見る歌二首
  燕来る時になりぬと雁がねは本郷(くに)偲ひつつ雲隠り鳴く(4144)
  春設(ま)けてかく帰るとも秋風に黄葉(もみち)む山を越え来ざらめや(4145)
―夜裏(よる)千鳥の鳴くを聞く歌二首
  夜降(よぐた)ちに寝覚めて居れば川瀬尋(と)め心もしぬに鳴く千鳥かも(4146)
  夜降ちて鳴く川千鳥うべしこそ昔の人も偲ひ来にけれ(4147)
―暁に鳴く雉を聞く歌二首
  杉の野にさ躍る雉いちしろく音(ね)にしも泣かむ隠り妻かも(4148)
  あしひきの八峯の雉鳴きとよむ朝明(あさけ)の霞見れば悲しも(4149)
―江を泝(のぼ)る船人の唄を遥(はろばろ)聞く歌一首
  朝床に聞けば遥けし射水川(いみづがは)朝榜ぎしつつ唄ふ船人(4150)

二日目に作られたこれら9首はすべて独詠歌である。家持は。柳、堅香子草などの草花、また雁、千鳥、雉などの鳥に寄せて、春の思いを歌っている。

(4143)にある堅香子草とはカタクリの花である。その花が群れ咲く井戸に乙女たちが水を汲みに来る。その姿が愛らしくて、一篇の詩にしたのだろう。歌を名詞止めにしたのは、家持の功績だと、斉藤茂吉はいっている。

(4149)の歌は、暁に霧の立ち込めた山に雉の声が聞こえる、その声を聞くと何とはなく物悲しい気持ちになると歌っている。このように、自然に投入した情緒を歌うのは、人麻呂、赤人にはなかったもので、家持独特の歌境であると、茂吉はいう。

―三日、守大伴宿禰家持が館にて宴する歌三首
  今日のためと思ひて標(しめ)しあしひきの峯上の桜かく咲きにけり(4151)
  奥山の八峰の椿つばらかに今日は暮らさね大夫の輩(とも)(4152)
  漢人(からひと)も船を浮かべて遊ぶちふ今日そ我が背子花縵せな(4153)

三日目に作られた三つの歌は、宴の席でのものである。おそらく国府に勤める官人たちを集めて催したのであろう。いづれの歌にも、守としての家持の気負いのようなものがこもっている。

これら15首は、春を迎えて高まった感情が、そのままほとばしり出たものである。家持には、生涯を通じて、作歌上の波というか、バイオリズムのようなものがあるが、彼が最もよく歌ったのは春であった。春の気配は、いつの世にあっても、人を饒舌にするものである。家持も、春が来るたびに、歌わずにはおれない人であったらしい。

次の三首は、帰京後の天平勝宝五年(752)二月に作られたものである。やはり春を歌ったこれらの歌は、家持の最高傑作のうちに数えられている。

―二十三日、興に依けてよめる歌二首
  春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも(4290)
  我が屋戸の五十笹(いささ)群竹吹く風の音のかそけきこの夕へかも(4291)
―二十五日、よめる歌一首
  うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀あがり心悲しも独りし思へば(4292)
春ノ日遅々トシテ、ヒバリ正ニ啼ク。悽惆ノ意、歌ニアラザレバ撥ヒ難シ。仍此ノ歌ヲ作ミ、式テ締緒ヲ展ク。但此ノ巻中、作者ノ名字ヲ称ハズ、徒年月所処縁起ヲノミ録セルハ、皆大伴宿禰家持ガ裁作セル歌詞ナリ。

先の十五首と比較すると、これらの歌には、自然に投入した人間の感情が一層よく現れている。このことをもって、大伴家持の時代を超えた清新な詩情を評価する論者も多い。

たしかに、家持には人びとから独り離れ、自然と向き合うことで、そこから醸されてくる孤独を喜ぶ性向があったようだ。「心悲しも独りし思へば」とは、ただ悲しいという消極的な情にとどまらず、そこに生きることの確かさを確認しているようなところがある。






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